since 1951 SPIRIT of KING 獅子の敵は、獅子だ。 特別対談

Vol.8

「群馬が生んだ、エースの宿命」







黄金期の快速エース右腕

渡辺久信

1984年、外れ1位の大当たり。
「日本一の速球投手になる」

これが少年時代からの夢だった。群馬県の出身。前橋工高では1年生の夏からエースとなり、甲子園に出場している。ライオンズからドラフト1位で指名されて、1984年に入団。ただ、正確を期すなら、その順位は“外れ1位”であり、結果的には“大当たり”だった。渡辺久信だ。

「群馬と埼玉は近いから、家族も友人も見に来やすい。だから行きたいという気持ちが強かった。ただ、周りの人は無理じゃないかって。(当時は広岡達朗監督の)管理野球にお前はついていけない、って(笑)。でも、すぐに順応できたし、(プロに)入ったときに広岡さんの下でできたのはよかったと思う。怖かったけど。銀縁メガネの奥の目は笑ってなかったから(笑)。寮の夕食で玄米を見たときはビックリしたけど(笑)」

高卒ルーキーながら、1年目から15試合に登板して、初勝利もマーク。球速では誰にも負けないと思ったというが、「1年だけね。次の年に郭泰源が来た。ダメだ、これは勝てない、って(笑)。ただ、今みたいに、155 kmとか、そういう球じゃない。147、8kmくらいの、キレのいい球だった」と振り返る。

その後の自負は、「体力は一番あった。いや、体力だけかな(笑)」と変わっていったというが、これは謙遜だ。もちろん、体力、そして身体能力も圧倒的だった。2年目の1985年には「抑えをしていたモリシゲ(森繁和)さんが5月くらいにケガをして、広岡さんに呼ばれて、今日から抑えやれ、って。当時の抑えは百戦錬磨の“おっちゃん”がやるポジションでしょ。19歳だったから驚いたけど、なるようになるだろうって」。

いきなり6試合連続セーブのプロ野球新記録(当時)。最終的には8勝11セーブ、初めて規定投球回にも到達してリーグ2位の防御率3.20をマーク。V奪還に大きく貢献した。
1986年の、“新人類”の台頭。
ちなみに、その“おっちゃん”たちの髪型は、たいがいパンチパーマだった時代。甘いマスクもあり、グラウンド外のファッションでも注目を集め始めた。先輩の工藤公康らと“新人類”として流行語大賞で表彰されたのは、翌86年オフだ。その1986年の西武は森祇晶監督の1年目。グラウンドでも自己最多、リーグ最多の219回2/3を投げまくって16勝を挙げ、初の最多勝に輝いている。

「それまでにいろいろな経験をできたことが大きかった。敗戦処理から始まって、抑え、セットアッパー、そして先発。全部やった」というが、最も周囲を驚かせたのは、やはりスタミナ。特に疲れを知らない筋肉だったのかもしれない。完投も多かったが、基本的にマッサージは不要だった。

「回復が早いから、張ってても、ちょっと揉んだらユルユルになる。投げていて自分の腕じゃないみたいになってしまうんだね。当然、登板の日は(マッサージを)しない。してる人がいたけど気が知れなかった。俺だったら、もうボールがあっちゃこっちゃ行っちゃうよ(笑)」

翌87は右肩痛、そして亜脱臼でキャリア唯一の長期離脱を経験したが、1988年には15勝で2度目の最多勝と完全復活。以降3年連続2ケタ勝利、1990年には快速球に加えてフォークも強力な武器となり、自己最多の18勝で3度目の最多勝に輝いている。巨人との日本シリーズでも第1戦(東京ドーム)で2塁を踏ませたのは1度だけという好投で完封。まさに全盛期だ。西武は1985年から1994年までの10年間でリーグ優勝9度。1990年には日本シリーズで巨人を無傷の4連勝と圧倒して、黄金期も頂点を極めている。
1989年の、忘れがたき一戦。
ベテランとなった1996年にはノーヒットノーランも達成したが、最も記憶に残っているのは、この試合ではないという。黄金期で唯一、優勝を逃した1989年の天王山だ。その前年、1988年の西武は薄氷の優勝だった。先に全日程を終えた西武を猛追したのが近鉄。“10.19”と語り継がれている10月19日のダブルヘッダーで近鉄が連勝できなかったことで、ようやく西武の優勝が決まったのだ。

1989年は、その近鉄と、阪急から生まれ変わったばかりのオリックスとの三つ巴の大混戦。10月に入って自力優勝が消え、最初に脱落したかに思えた近鉄だったが、10日に西武3連戦の初戦に勝ったとこで自力優勝が復活、11日が雨で中止となったことで、12日にダブルヘッダーが組まれることになった。舞台は西武球場。それまで主砲のブライアントをカモにしていた渡辺は、第1試合の8回表、2打席連続で本塁打を放つなど勢いに乗るブライアントを止めるべく、中1日でリリーフに立った。だが、結果は3打席連続となる本塁打。マウンドにヒザをついた。

「僕の勝負球は2つしかない。高目へのストレートか、低目へのフォーク。それでストレートを選択して、それまでのブライアントの空振りゾーンを狙った。これはもう、打ったほうがすごいと思うしかないでしょう」

ブライアントは第2試合にまたがって4打席連続本塁打として、これで近鉄が優勝したこともあり、3発目を許した渡辺にも様々な批判があった。だが、このときに学習したのは、どれだけ結果論の批判が選手を傷つけるのか、ということだったという。
2008年の、強靭なメンタル。
2008年に西武の監督に就任。プロ入りの際と同様に、「明るく才能にあふれる選手だったが、監督としてはどうか」というような声もあったが、いきなり優勝、日本一に。若い選手が躍動した印象が強い日本一イヤーだが、これには渡辺の方針も大きい。「押しつけず、委縮させない」という信念の下、試合でのミスに怒ることはなかった。その原点は、言うまでもないだろう。現役時代は、疲れの残らない筋肉だけでなく、打たれたショックも残さない強靭なメンタルも武器だと言われていた。

「寝たら切り替えられましたね。僕はマウンド以外、真剣じゃなかったんで」と笑う。必ずしも嘘ではないだろう。だが、ここにも謙遜は含まれているように思える。失敗を忘れるようなことはないのだ。

驚的なリカバリー能力とタフなメンタル、そして類まれな速球――。すべての面でクオリティが高かった快速右腕。黄金期を引っ張った、正真正銘のエースだった






成長著しい次期エース候補

髙橋光成

2015年の、エースの片鱗。
高校2年時、前橋育英高を夏の甲子園初出場、初優勝に導いた髙橋光成。1996年から西武ライオンズ主催公式戦が度々開催されている群馬県が生んだ超逸材とあって、入団当初から、「将来のエース候補」として格別な期待と注目の眼差しが向けられている。

1年目から、その片鱗を十分に示した。2015年8月2日の福岡ソフトバンク戦で1軍デビューを果たすと、2試合目の同9日のオリックス・バファローズ戦では、5回1/3を1安打無失点に抑え、プロ初勝利を飾る。さらに同23日の千葉ロッテ戦では、高卒新人では松坂大輔と並ぶ4試合目での初完投、初完封勝利という偉業を達成。初勝利から自身5試合連続勝利を記録し、8月度の月間MVPにも輝いた。「自分でも、ここまでできるとは思っていませんでした」と初々しくはにかんだ18歳右腕に注がれる期待値は、より一層高まった。

しかし、プロの世界はそれほど甘くはない。2年目からは、高く厚い壁に直面することとなった。

2016年は、序盤こそ自身3連勝、完封勝利、2試合連続完投勝利など、結果、内容とも順調に実力を発揮できていた。しかし、夏場以降は体力不足から一気に状態を落とし、自身7連敗も経験した。それでも、苦しみながら現状と真摯に向き合い、ローテーションを守りきる中で改善の糸口を見出そうと努めたが、明確な光明は見つからないまま、結果として22試合登板、19試合先発、4勝11敗、防御率4.42の成績に終わった。

3年目、4年目は怪我に苦しんだ。人生初となる肩の故障は、復帰までに想像以上の時間を要し、回復してもまたなお、今度は再発ヘの恐怖心との闘いの日々が待っていた。故障箇所は完治しているにもかかわらず、無意識に脳がストップをかけ、身体がかばう動きをしてしまう。そのため、フォームのバランスが崩れるという悪循環。その結果、登板数も2017年は7試合、2018年は3試合、勝利数もそれぞれ3勝、2勝と、下がっていく一方だった。
2018年、自分と向き合った日々。
そんなどん底の状態から救ってくれたのが、菊池雄星(現シアトル・マリナーズ)の存在だった。「肩を怪我して、結果が出なくて、と、まるで僕の4年目までを見ているみたい」と、自身の境遇と重ね合わせた当時のライオンズのエースは、親身になって様々な角度から助言を授けてくれた。同じ困難を乗り越え、球界を代表する投手にまでなった先輩の言葉が、どれだけ説得力があり、支えとなったことか。日々くり返し訪れる不安や悩みを素直に相談し、一つひとつ解消できたことで、迷いや焦りを封印し、苦境を乗り越えることができた。

そして2018年オフ、菊池が中心となって行っている自主トレに初めて参加したことで、人生が大きく変わっていく。トレーニングや技術練習はもちろんだが、それ以外にも体のメカニズムの勉強、栄養学、メンタルトレーニングから生活習慣まで、野球に必要なあらゆる要素を本格的に学んだ。また、期間中、日々寝食を共にすることで浮き彫りになった、「周囲に流されやすい」という本人も自覚する性格の弱点にも鋭い指摘を受け、徹底的に自分と向き合う好機となった。ひとつのことを決めても、周囲の声に影響され、「すぐフラフラして、結局何も形にならない」で失敗してきた自分を、今度こそ直すことを決意した。

こうして2019年、心身とも大きく変化を遂げた群馬っ子は、10勝6敗と初の二桁勝利を記録し、チームのリーグ優勝に大きく貢献。防御率が4.51と高いだけに、「内容はまだまだ」と本人も決して納得しているわけではないが、「二桁勝てたことで、初めて見えてくるものはある」と、ひとつ高いレベルで見識を広げられる手応えを実感しているのも確かである。つらい思いをしながらも、その経験一つひとつを血肉とし、着実に一歩一歩足元を固めてきていることを考えれば、すべて“エース”になるための必要な困難だと受け取れる。
2020年、エースへの自覚。
菊池だけではない。現投手コーチの西口文也は、2015年の自身の引退セレモニーの最後、マウンド上に置いたグローブを1年目右腕に託し、「後継者になれ」との期待を公に伝えた。さらに2018年オフには、渡辺久信GMから背番号「13」を髙橋光に継がせたい意向を告げられると、「光成なら」と快諾した。岸孝之(現楽天)からも、自身がノーヒットノーランを達成した時のグローブをプレゼントされるなど、1年目から歴代のエースたちに特に可愛がられてきた。

それは投手だけにとどまらない。今年9月1日の千葉ロッテ戦を7回被安打1、無失点。8日のオリックス戦では8回終了までノーヒットノーランの快投を見せるなど、8月中旬から調子を上げたが、その要因に「栗山巧さんや中村剛也さん、山川穂高さんなどに打者心理をお聞きし、取り入れるようにした」ことを挙げている。投手野手にかかわらず、超一流選手たちが揃って協力し、積極的に助言をしてくれるのは、素直さや人懐っこさなどの人間性、練習姿勢や日頃の努力、何より、そのポテンシャルの高さを誰もが認めているからに他ならない。そして、それらはすべて、“エース”と認められる上でも非常に大切な資質だと言っても過言ではないだろう。

正捕手・森友哉は、常々「野手は、投手のマウンドでの立ち居振る舞いを常に見ている」と、投手に必死さ、懸命さの重要性を求めている。投球姿を見て、野手たちに「こいつのために守ってやろう。打ってやろう」と思ってもらえるか。そして、その守ってくれる、点をとってくれる野手のサポートに応えるべく、闘争心をもって相手に立ち向かっていけるか。その絶対的な信頼関係を築ける存在こそが、真の“エース”の名に相応しいと言えよう。その意味で、髙橋光はすでにその求心力を持っている。

「チームを引っ張っていける存在になりたい。そのためには、野球に対する姿勢や普段の生活などもすごく大事になってくると思う」。自覚も十分。190cm、105kgのダイナミックな体から投げ込まれる直球は、自信と練磨を兼ね備え、さらにパワフルさを増してきた。次代のエースへ、その未来は前途洋洋だ。
Profile
渡辺久信
1965年8月2日生まれ。群馬県出身。1984年、前橋工高からドラフト1位で西武入団。2年目に8勝11セーブを挙げリーグ優勝に貢献するなど、西武黄金期の中心投手として活躍。主なタイトルは最多勝3回(1986年、88年、90年)、最優秀勝率(1986年)。通算成績は389試合登板、125勝110敗27セーブ、防御率3・67。
髙橋光成
1997年2月3日生まれ。群馬県出身。前橋育英高では2年夏に甲子園初出場を果たし、全国制覇を遂げた。2015年ドラフト1位で西武に入団。1年目は夏場に1軍へ上がると5勝をマーク。史上最年少で月間MVP(8月)にも輝いた。2019年は10勝を挙げ、リーグ連覇に貢献。今季はチームトップの勝星で、投手陣の柱としてチームを牽引している。通算成績は61試合、24勝24敗、246奪三振、防御率4.25(2019年シーズン終了時点)。






コラムテキスト:ベースボール・マガジン社